「悲しく、苦しい5年間でした」。福島県いわき市で中国人の妻(53)と暮らす田中吉男さん(59)=仮名=は「3・11」からの5年間をそう振り返ります。
■想像絶する混乱
2人は2003年に国際結婚。妻は日本に来て13年になります。日本語は十分ではありません。
東日本大震災とその後に起きた東京電力福島第1原発事故。「想像を絶するパニックに陥りました」
夫妻が住む実家は、いわき市四倉町の海岸近くにありました。津波が襲い浸水。1階に住んでいた父親(88)と寝たきりの母親(87)のベッドまで津波が押し寄せてきました。夫妻と両親は消防隊に救助されました。
四倉高校の体育館に避難したものの、寝たきりの母親と、海水につかって体調を崩した父親、そしてパニックになっている妻。体育館は寒く、惨めで、寝たきりの母親を長くは置いておけない状態でした。
そんな状態の時に東電福島第1原発が爆発。31・5キロしか離れていない四倉町の人たちは「自主避難」を選択し、遠くに避難していきました。
日本語を十分に理解できない妻は「津波が来たときは屋根に登って助かりました。『神様助けて』とお願いしました」とそのときの恐怖を語ります。
いわき市には当時、約500人の中国人が住んでいました。
田中さんの妻は「中国の家族や在日中国人の仲間たちからは『すぐに逃げるように』と電話がたくさんかかってきました」と、混乱した当時の状況を振り返ります。
「毎日、泣いていました」。そんな時に中国領事館から「新潟からチャーター便が出る」と妻に電話があり、11年3月18日に中国に避難することにしました。
妻の実家は、中国の吉林省吉林市。中国に避難後、妻は夫の田中さんを心配して何度も国際電話をかけました。
そのころ田中さんは、ストレスで精神的にまったく余裕がない状態でした。心配して電話をかけてくる妻にきつく当たりました。
不安を募らせた妻は、中国の家族の反対を押し切って6月10日にいわき市四倉町に帰ってきました。
■妻から毎日電話
親をみていた介護職員も原発事故でいなくなり、誰も頼る人もなくなった田中さんは両親の介護を1人で背負っていました。
「帰ってきた妻につらく当たり、ささいなことでけんかをして夫婦関係も悪くなりました。話し合いの結果、8月30日付で離婚届を出すことになりました」
妻は失意の中、中国の実家に再び帰っていきました。
中国に帰った妻は、毎日田中さんに電話をかけてきました。
「いまさら電話で話しても仕方がない」と電話にも出ない田中さんでした。
しかし、「妻を失った寂しさ、言いようもない悲しさ。心の支えを失った切なさ」を癒やしてくれたのは、毎日欠かさずかかってくる妻からの電話でした。田中さんは「電話に出てみよう」と思い直しました。
話し合いの結果、12年7月に再婚することにしました。妻との「新たな人生のスタートを切りたい」と、再婚後は妻の姓を名乗ることにしました。
田中さんは言います。「言葉の壁のある外国人が、原発事故にあったときどれほどの恐怖感を持つか理解してほしい。外国人への支援策が必要です。中国への渡航費用など100万円以上はかかっています。夫婦の絆は取り戻しましたが原発はいらないです。地雷がそばにあるようで原発はゼロにしてほしい」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2016年4月10日より転載)