「原発両稼働も、安保関連法(戦争法)にも反対です」。福島県二本松市の安斎克仁(あんざい・かつに)さん(79)は、今の政治を許さない決意をそう語ります。
■ほんとの空守れ
「私たちは安達太良山を『お母さんの山』と言っています。原発は『母さんの山』にふさわしくないのです」と安斎さん。山頂に乳首のような突起があり、別名「乳首山」とも言われています。
高村光太郎の『智恵子抄』で「安達太良山の上に毎日出ている青い空が智恵子のほんとの空だ」と詠われました。
安斎さんは言います。「母なる山が原発事故で汚されました。『ほんとの空』を守るためには自然エネルギーに転換しないといけません」
安斎さんの次男の妻と当時7ヵ月だった孫は2年間長野県に避難しました。
「古里に戻るためには平和でないと」と考える安斎さん。このほど『風船爆弾になった和紙』を冊子にまとめました。
安斎さんが住む二本松市上川崎地域は「千年以上の歴史を誇る手漉(す)き和紙の産地」でした。
平安時代に「みちのく紙」と呼ばれました。紫式部や清少納言たちに愛された「まゆみ紙」は上川崎地域で漉かれたと伝えられています。
戦中、上川崎村には和紙製造工場は239戸ありました。
1944年から45年にかけて軍用紙の生産割り当てがなされました。福島県への割り当て枚数は50万枚。そのうち上川崎村は約40万枚を納めたと記録されています。
須賀川市史には、「陸軍の依頼で、コンニャク糊(のり)塗り加工作業に須賀川町第二国民学校高等科生徒男女百五十名が動員された」と書かれています。「機密保持のためか、上川崎村で漉かれた和紙とは、知らされても、書かれてもいない」
安斎さんがこうした郷土の歴史に関心を持つようになったのは「国民学校」3年生の時の戦争体験でした。
45年7月12日深夜、何十機もの米軍機が飛来し、照明弾が投下され、その後に農家を狙って焼夷(しょうい)弾の爆撃が繰り返されたのです。
全焼した農家は2戸、ボヤ2戸。幸い死傷者はありませんでした。「紙漉きの村がなぜ爆撃されたのか」。安斎さんの長年の疑問でした。当時は「誤爆」だったと言われてきました。
■自分が加害者に
安斎さんは、関係郷土史と米国側の資料などを研究。それらを総合すると「和紙は風船爆弾の第一番の材料。その生産地となった和紙の里をねらってアメリカが報復爆撃した」のが真相ではないか?と推論しました。
風船爆弾は44年11月から福島県勿来、茨城県大津、千葉県一宮から飛ばされました。計9300個飛ばされて偏西風にのってアメリカ大陸に到達した数は推定1000個とみられています。
45年5月5日、オレゴン州の村で5人の子どもと、牧師の妻が風船爆弾で死亡しています。
「オレゴンの悲劇」と言われ、上川崎村への爆撃はそれから2カ月後のことでした。
「戦争の被害者とばかり思っていたのが知らぬ間に加害者の立場になっていたのかもしれません。戦争は二度と繰り返してはなりません」
(菅野尚夫)
(「しんぶん」赤旗2016年3月14日付けより転載)