福島県南相馬市の八沢浦干拓地で主にコメ作りをしてきた澤田忠徳さん(74)は、3代読いた農業をあきらめました。東京電力福島第1原発事故で、「人生の方向を失わされた」といいます。
■自粛で地域荒廃
南相馬市は、原発事故で市内全域が3年間作付け自粛となりました。「土を耕して、作物を育て、収穫して消費者に食べて喜んでもらう。これが農家の喜びです。それができなくなった」
作付け自粛は、農地を荒れさせました。害虫が増えて、イノシシやサルが田畑を荒らすなど地域を荒廃させました。
「原発事故は3倍の速さで農家をつぶした」と、澤田さんはいいます。
南相馬市農政課によると原発事故が起きる前の2010年は3000戸を超える稲作農家がありましたが、2015年には500戸近くまでに激減しました。
澤田さんが耕す八沢浦干拓地は、1906年に山田貞策氏が私財を投じて着工した土地。1935年、314ヘクタールの水田を造成しました。標高マイナス0・8から1・2メートルの低湿地でした。
澤田さんの祖父がここに入植して始めた稲作でした。澤田さんは18歳から農業を始めました。それだけではなかなかやっていけなくて、25歳のときから3交代の職場で働く、兼業農家でした。55歳になったころ父親が高齢になったために会社を辞めて農業に専念することにしました。
2011年3月11日の東日本大震災のときは、自宅が海から4キロしか離れていなかったために津波で浸水、家にいた父と妻は2階に避難しました。翌日県警のヘリコプターでつり上げられて救助されました。税金の申告のために税務署にいた澤田さんは、津波を避けることができました。
何箇所か避難生活をした後に、津波で浸水した自宅のリフォームが完成したことから、6月1日に自宅に戻りました。
澤田さんは「一生懸命もう一度自分でコメを作り、消費者に喜んで食べてもらいたい」といいます。しかし、3年間の作付け自粛。
「精神的に大変ショックでした。南相馬市の農家は、作物を作る意欲と展望をなくしました。私の人生を変えられました。悔いが残ります」
「生業を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟の第16回口頭弁論で原告本人尋問に立ち証言しました。
■安らぎ無くなる
「原発事故の前と後で比べて、農業のほかに一番変わったと感じていることは何ですか」と問われた澤田さん。「夏は海での海水浴、秋は山での山菜採りと四季折々の安らぎが無くなりました。自然が壊されました。森林は除染しないという方針は、とんでもない話です」と陳述。
「国と東電は、風評被害が完全になくなるまで責任を持って賠償すべきです。TPP(環太平洋連携協定)はさらに農業を破壊します」。国と東電を厳しい口調で告発しました。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2016年2月23日より転載)