「人生が変わった」。福島県浪江町津島地区から福島市内で避難生活をおくる三瓶春江(さんぺい・はるえ)さん(55)は、「3・11」からの5年間をそう振り返ります。
生まれも育ちも浪江町。「自然豊かな美しい古里。隣近所、和気あいあい。人間性のにじむ故郷」でした。
父は戦前、憲兵でした。両親は満州(現中国東北部)に暮らしました。終戦で父はシベリアに抑留されました。
戦後、両親は現在の浪江町津島地区を開拓して入植。稲作や炭焼きをしていました。「開拓者の生活はつらく、なかなか白米は食べられずジャガイモなど雑炊を食べ、入学式はランドセルもありませんでした」
浪江町を離れたくなかった春江さんは同じ町内の人と結婚しました。愛する浪江町を離れたくなかったのです。夫は自営業。春江さんは夫の仕事を手伝いながら車の部品をつくる内職をして生計を立ててきました。
■国から指示なく
3月12日、東京電力福島第1原発が爆発。浪江町役場や町民は、原発の北西約30キロの津島地区に移転、避難してきました。当初、津島地区は「テレビなどは『大丈夫です』」と伝えられ、避難しなくてもよかったのです。
15日になって町の指示で突然避難するようになりました。国からの指示はありませんでした。家族10人が2台の車に分乗して東京都文京区に避難。4月2日には、二本松市東新殿、四21日には、猪苗代町と転々と避難しました。家族は6ヵ所に離散することになりました。
「国を信用していません」という春江さん。原発事故で「緊急時迅速放射能影響予測ネットワークシステム」(SPEEDI、スピーディ)のデータなどを公表しなかったためです。
同データは3月下旬、線量は4月上旬に町に伝えられました。町は「津島地区が町内でも特に高線量だったと、初めて分かった」といいます。高線量と分かったならば「逃げなさい」と指示するのが国民の命と健康を守る国の責務。それなのに「パニックになるから」と言い訳し公表しませんでした。「戦前の大本営発表と同じ」と厳しく批判します。
「理不尽です。納得できるはずはありません。国が非を認めるまでたたかい続ける」と心に決めています。
■収束宣言に怒り
憤まんが収まらないのはそれだけではありません。「安倍首相は早々と原発事故の収束宣言をした。何が収束なのか?どこが収束なのかわからない!」と怒ります。「こんな状況だと同じことを繰り返すことになる」と不安なのです。
春江さんら原告は元の津島に戻すことを主張しています。
「場所だけが故郷ではありません。地域の全体のかかわりが居心地良いのです。子どもたちは地域の中で育てられました。そうした温かい古里を取り戻したいです」
父親は40年前、原発が福島県沿岸部に造られることになったとき、反対でした。
「東電は私たち避難者を被害者とみていません。言葉だけで謝罪の気持ちが伝わってきません。謙虚な気持ちで対応すべきです」と、原発の再稼働を進める国を許してはいません。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2016年2月1日より転載)