東京電力福島第1原子力発電所の構内を視察してきました。
半袖、半ズボン、スタート、サンダル、ハイヒールは不可と事前に通達されていたので、私はランニングウェアで行くことにしました。
視察時間は午後1時から5時半まででした。9月5日に避難指示が全面解除されたばかりの楢葉町のJヴィレッジからバスに乗り、第1原発で別のバスに乗り換えました。
2、3号機原子炉前を通り過ぎる時に、車中でも290マイクロシーベルトに達しました。
視察を終えて入退域管理施設に戻ると、ちょうど一日の仕事を終えてスクリーニングをしている作業員の方々がゲートモニタから出るところでした。
私は彼らと目を合わせ、「お疲れ様でした」と会釈をしました。
この過酷な現場で、平日1日あたり約7000人が働き、地元雇用率は約45%
だそうです。
友人のHさんの旦那さんも、原発の収束作業に従事しています。私の息子と同じ高校1年生の男の子を持つ父親なのですが、南相馬市内にある仮設住宅に帰宅するのは月に1度ぐらいで、いわきにある作業員宿舎に単身赴任しています。
Hさんのお宅は、「警戒区域」に指定された小高区の沿岸部にあり、津波で自宅が全壊しました。
私とHさんは、互いの家に泊まり合うほど親しく、家族ぐるみの付き合いをしているのですが、この4年間、一度も旦那さんにお目にかかったことはありません。
今年63歳になったNさんは、結婚して子どもが生まれるから安定した仕事に就こうと20代の時に原発作業員となり、以来40年間原発一筋で働き、3人の子どもを育て上げました。
Nさんは、福島第2原発で作業中に東日本大震災に漕い、第1原発の収束作業に従事しました。現場を見て、あまりにも過酷な状況なので、驚きを通り越して笑いがこみ上げてきた、と語っていました。
Nさんは被曝線量がいっぱいになったので、現在は女川原発の寮に単身赴任し、週末に南相馬の家族のもとに帰ってきています。
Nさんの2人の息子もまた、高校卒業後に作業員となり原発で働いています。
他地域で暮らす人々は、原発事故を放射能汚染だけの問題として捉えがちですが、地元で暮らす人々にとっては、父親や兄弟が働く職場なのです。
そして、私たちの生活の「安全」は、彼らの「危険」な労働によって支えられているのです。私たちは、「危険」に依存する形で成り立つ「安全」「豊かさ」「明るさ」から、いつになったら脱却することができるのでしょうか。
(ゆう・みり 作家 写真も筆者) (月1回掲載)
(「しんぶん赤旗」2015年10月9日)