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戦争も原発もやめて・・生業訴訟原告 黒森道夫さん(82)

黒森さん一家が満州へたつ前、東京で撮った家族の写真。道夫さんは右から2人目。母は左端
黒森さん一家が満州へたつ前、東京で撮った家族の写真。道夫さんは右から2人目。母は左端

 福島市野田町に住む黒森道夫さん(82)は6歳のときに両親と妹2人の家族5人で「満蒙開拓団」として旧満州(中国東北部)の「北学田」に入植しました。

 父親は福島県郡山市の農家でした。「満州に行けば豊かな生活ができる」「10町歩(約10ヘクタール)の地主になることができる」との呼びかけに誘われて、多くの人々が募集に応じました。福島県からは全国5番目の約9500人が入植しています。

 「入植した北学田で小学校に入学した」と黒森さん。「学校まで8〜9キロ離れていたので寄宿舎生活になりました。家族とは週1回学校が休みのときに会えるだけでした。気温はマイナス43度にもなり、鼻水が凍りつきました」と少年時代を振り返ります。

■妹と母親亡くし

 「徴兵されない」と言われていた開拓団の男性も、戦争末期には「根こそぎ兵隊として動員」されました。1945年8月13日、父親が召集され、開拓団は女性と子ども、お年寄りが残されました。

 46年に「引き揚げ」となり、引き揚げ列車で南下。妹は中国人に預けますが、1歳で死亡。それを知った母親は深く落胆し、栄養失調も重なり発病して「松花江(しょうかこう)」を渡る手前の駅で亡くなりました。

 13歳だった長男の黒森さんは、11歳、7歳、5歳のきょうだいを連れて子どもたちだけで帰国。

 「母が亡くなって悔しくて、寂しくって、悲しかった。戦争さえなかったなら、こんな悲惨な目にはあわなかった」

 黒森さんは、2人の妹を福島市の父親の実家に預け、大工のでっち奉公に出ました。音信が途絶えていた父親は捕虜として中国の炭鉱で働かされていて、53年に帰国しました。

 その後、独立した黒森さん。今も工務店を営んでいます。

■国と東電訴える

 「3・11」当時、高校1年、中学2年、小学5年の孫たちは、10日間、千葉県に避難しました。

 「子や孫たちに苦難を残すわけにはいかない」と、国と東京電力に損害賠償と状回復を求める「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!福島原発訴訟」の原告に加わりました。

 「安倍首相は川内原発を再稼働させた。原発事故の恐怖がこれから何年続くのか分からない。責任も取らないまま再稼働など、とんでもない。全国の原発は即刻止めてほしい」

 8月、「ふくしま平和のための戦争展」のプレ企画で「戦争体験を聞く会」が開かれました。招かれた黒森さんは、自分の戦争体験を初めてみんなの前で語りました。

 「戦争も原発も国策」と強調する黒森さん。「戦争も原発事故も人為的に起こされたもの。戦争だけは絶対に起こしてはほしくない。誰の利益のために戦争法案を通そうとしているのか。亡くなった母や妹のためにも声を上げ続けたい」

(菅野尚夫)

(「しんぶん赤旗」2015年9月4日より転載)

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