東日本大震災の起きた「3・11」。福島県いわき市に住む荻野幸也(おぎの・よしや)さん(80)は、犬を連れて散歩中でした。
交通事故にあい、1年間の入院生活の後にリハビリを兼ねて毎日の散歩を心がけていた荻野さん。突然の激しい揺れで立っていることも困難な事態でした。余震におびえながら家まで戻ると、自宅は全壊に近い打撃を受けていました。
■2回目の物不足
大地震に追い打ちをかけるように東京電力福島第1原発が爆発。街はガソリンが不足しました。運輸業者は、原発事故の放射能被ばくを恐れて、いわき市まで物資を運んでこなかったのです。
日本共産党が取り組んだ全国からの支援物資で炊き出しをし、1人暮らしの家にはみそ汁も配りました。
「これほどの物不足は2回目だ」と、荻野さんは言います。
最初は敗戦直後の物不足です。「同級生には栄養失調で亡くなる人もいた」。震災直後の物不足は、徐々に回復したものの現在も建築資材が不足して自宅の建て替えに高額な資金がかかりました。
戦争が終わったとき、荻野さんは「国民学校」4年生。戦争推進の教育をたたきこまれた軍国少年でした。「8月15日、終戦を知って、『あだ討ちをするぞ』と叫んだほど」
戦後は、市役所の職員として失業対策の業務に携わりました。1962年、いわき市が新産業都市に指定されたことを機に、鉄工所の会社を設立。ラーメン店など飲食店も営んできました。
■40年前から反対
荻野さんは、福島県の沿岸部に原発を造る計画が起きた40年前から原発には反対でした。署名運動も取り組みました。
「伊東達也さん(いわき市民訴訟原告団長)の影響です」と言います。「周辺の人たちは原発建設に賛成が多かったのですが、勉強会を開き、原発がいかに危険なものかを説いていました。その信念に絶対的な信頼を寄せることができました」と振り返ります。
40年前から警告していたことが現実になりました。「自分も含めてなぜ最初から止められなかったのかと自責の念にかられます」
いわき市民が立ち上がりました。国と束電を相手に低線量汚染地域および収束に程遠い福島第1原発近くで日常生活を余儀なくされていることへの責任と継続的被害を認めさせるための訴訟を提起したのです。
「原告に親子3人で加わりました。裁判の傍聴もいっています」
日がたつごとに怒りがわくと荻野さん。原発ゼロヘ踏み出す契機となる裁判結果を勝ち取ると燃えています。
「戦争体験の世代として『最後のご奉公』と思い、戦争法案に反対しています。『いい加減にしろ』と言いたいほどに暴走する安倍内閣。暴走をストップさせ、政治を変えたい」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2015年7月26日より転載)