中学校の美術教師だった菅野偉男(かんの・ひでお)さん(74)は「絵の力で福島の怒りを描けないだろうか」と思っています。東京電力福島第1原発事故の完全賠償をさせる福島県北の会事務局長として奔走する傍ら個展を開くなど多忙です。
福島県北部の伊達市に住む菅野さん。原発事故が起きた直後の2011年9月、伊達地区の特産品のモモが大暴落しました。県北農民達が中心になり東京電力と直接交渉を繰り返してきました。
「たたかいをしないと東京電力のいいなりにされてしまう」と、12年4月に「完全賠償をさせる県北の会」を立ち上げました。
■東電対応に爆発
東電は、福島市、郡山市、いわき市など23市町村の住民に一律8万円の賠償額を示しました。
「怒りは県民全体に広まった」といいます。
「深刻な被害を軽んじた東電の対応に怒りが爆発しました。完全賠償させるたたかいと裁判闘争の二本足でやる」決意を固めました。「生業(なりわい)を返せ、地域を返せ!」福島原発訴訟原告団福島支部の支部長も務めています。
1940年に中国で生まれた菅野さん。アメリカの爆撃機B29による空襲の体験をしています。予科練(少年航空兵)たった兄は、満州(中国東北部)に出征しソ連の捕虜になりシベリアに抑留されました。菅野さんは、49年に父親の実家があった福島に引き揚げてきました。
小学校に入学した年に憲法と教育基本法が施行されました。
「民主教育を受けた第1号の世代です。中学3年生のときの宿題は憲法全文を書いてこいということだった。平和、国民主権、基本的人権というものがどういうものなのか意識付けられた」といいます。
大学生のとき、日米安保条約改定に反対する戦後最大の国民闘争となった60年安保闘争や謀略事件の松川事件の真相究明を求めた裁判闘争支援に遭遇しました。
「僕らは戦争体験を語ることができる最後の世代です。戦後民主主義の第一走者でもあった。再び戦争する国にする集団的自衛権行使容認には絶対反対だ」と強調します。
■全国から知恵を
「怒りの3年だった」と、「3・11」を思う菅野さんは、三つのたたかいの目標をたてています。
一つは、福島を風化させないこと。「話を聞いて、見てほしい。ツアーで見に来てほしい」
二つは、原発ゼロ100万人署名を達成させること。「全国の支援をお願いします」
三つは、大飯原発再稼働差し止めを認めた福井地裁判決に勇気をもらい福島原発の廃炉を求めでたたかう。
「気力、体力が続く限り、やり遂げる」と話す菅野さん。「原発のない日本にする。安心して暮らせる元の福島にすることが
第一です。アメリカや日本の支配層の利益追求から脱却しない限り福島を元に戻すことはできません。全国から知恵をもらって生業訴訟で完全勝利したい」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年7月21日より転載)