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中間貯蔵施設 大熊町で調査・・17日から環境省

東日本大震災・東京電力福島第1原発事故から2年2カ月。全町民が福島県内や県外で避難生活していた浪江町。日本共産党のいわぶち友参院選福島選挙区予定候補らは5月9日、馬場いさお町議の案内で4月1日に放射線量によって帰還困難、居住制限、避難指示解除準備の三つの地域に再編された浪江町を調査しました。(菅野尚夫)

最初に訪れたのは帰還困難区域に指定された津島地区です。年間積算放射線量が50ミリシーベルトを超え、5年間を経過しても年間積算線量が20ミリシーベルトを下回らないおそれのある地域です。

福島市から川俣町山木屋地区を通り津島地区へ。手持ちの簡易放射線量測定器は、山木屋に近づくと毎時10・28マイクロシーベルトまで計測できました。

津島地区に入ると、こんな張り紙をしている家がありました。

「今日も暮れゆく 仮設の村で 友もつらかろう せつなかろう」。二本松市の塩沢農村広場仮設住宅で避難生活を送る人の作品です。

荒れ果てた自宅

原発から約30キロ離れた浪江町津島支所は毎時5・47マイクロシーベルト、津島小学校近くは同6・64マイクロシーベルト。学校には子どもの声はなく、ウグイスとキジの鳴く声が静寂を破ります。間違いなく春は訪れてはいますが、人のけはいと生活音が消えた「沈黙の春」です。

田植えの時期なのに水田にはトラクターの姿もなく、水も張られておらず、柳が生い茂っていました。米づくりに欠かせない土づくりは2年間ストップしたままです。

「荒れ果てたわが家だなぁ」。馬場町議は自宅に着くと、つぶやきました。最大23頭いた牛舎はもぬけのカラ。事故後に泣き泣き手放したのです。「帰れないなぁー」

庭の線量は毎時21・4マイクロシーベルト。雨どいの下に計測器を持っていくと同104・7マイクロシーベルト。これまで記者が計測したことのない放射線量です。

津島地区から、居住制限地域や避難指示解除準備地域の線量の低い地域にある役場やJR浪江駅の地域に移動。役場では「町応急仮設診療所」がこの日から開所しました。

「医者が診療所にいれば、安心して町に戻ってもらえる」と二本松市の仮設住宅で診察している関根俊二医師(71)が週1回、浪江町まで通ってきます。

「患者はまだ一人もきません」と関根医師。「ライフラインが復旧していません。医療に水は欠かせませんからペットボトルを大量に準備はしていますが…」と訴えました。

漁船横転のまま

人っ子一人もいない浪江駅前。2年間も放置された倒壊家屋。復旧工事ができないでいます。

浪江町で最も多い行方不明と死亡者をだした請戸漁港。陸上まで津波で押し流された漁船がひっくり返ったり横転したりしたまま。

「全て流されても、私たちの心の中では請戸は生きている」。請戸小学校の教室の黒板に書かれた生徒の文字です。

調査を終え、いわぶち氏は「想像を超えた高い放射線量の津島地区、2年が過ぎて、いまだ津波のつめ跡をさらしたままの請戸地区。これでどうして事故が収束したなどと言えるでしょうか。国に『収束宣言』を撤回させて、あまりにも不十分な賠償基準の見直しや真の復興、そして『即時原発ゼロ』実現のためにも参院選で日本共産党を大きくしたい」と話しました。

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