「福島・『津島』はなぜ闘うのか」―。こんな集いが3日、東京都内で開かれました。東京電力福島第1原発事故発生後、現地を取材し、記録し続ける3人のジャーナリストが報告。参加者と交流しました。主催は「土井敏邦 パレスチナ・記録の会」です。(徳永慎二)
怒りかなしみ発信
3人は野田雅也さん、森住卓(たかし)さん、土井敏邦さん。自ら制作したドキュメンタリー映画、写真集を紹介しながら、原発事故を「なかったことにさせない」決意を話しました。ふるさとを返せと立ち上がった福島県浪江町津島の人たちの怒り、悲しみ、悔しさを作品を通して発信してきた、とりくみを語りました。
「ふるさと津島を映像で残す会」が制作したドキュメンタリー映画を撮影・監督した野田さんは、1年かけて560の家屋をドローンで空撮。「静かで音のない津島最後の風景」などの映像を紹介しました。ナレーターは「100年後の子孫にこの物語を送ります」と結びました。
森住さんは、カザフスタンのセミパラチンスク核実験場など世界の核実験被害者を取材してきました。「核被害は被ばくだけでなく、ふるさとそのものを奪ってしまうことを、福島の取材を通して感じた」といいます。放射能の危険性を可視化した、植物やカエルの映像などを紹介しました。
長くパレスチナ・イスラエルを取材してきた土井さんは「原発事故に遭遇した人々の証言集『チェルノブイリの祈り』に衝撃を受けた。人のことばを丹念に記録している。心を打つ」と話し、インタビューした津島原発訴訟の原告24人のうち、2人を紹介しました。
貧乏でも楽しさが
1人は須藤カナさん(70)。離婚後3人の子どもを育てました。「コメもない、金もない。子どもを道連れに死のうと思ったこともあった。娘に“ご飯食べられなくてもがまんするから”といわれて踏みとどまった」
力仕事もして、真っ黒になって働きました。「津島の人はあったかいんだよ」と須藤さん。子どもたちに“母ちゃんは帰りが遅いから、ご飯食ってけ”といってくれたり、コメやみそが入った袋を玄関においてくれたり。「貧乏だったけど、おれはここで生きてるという楽しさがあった。それを原発事故でばらばらにされた。その悔しさは言葉では表せない」
「返してくれ」叫び
もう1人は、馬場績(いさお)さん(77)。馬場さんは浪江町の元日本共産党町議でした。
「戦後の開拓農家の苦労を抜きに『津島』は語れない。がんばって光が見え始めた矢先の原発事故だった」といいます。「原発事故は、人生を奪い、どんな地域づくりをするのか、創造を奪った。子どもたちに将来を語れなくなった」
ふるさとについて馬場さんは「生きる根源であり、生活を築き、命をつないできた土台」だといいます。「山の水、春、田んぼで鳴くカエルの声、山菜やキノコ、私たちの命をつくってきたのがふるさと。それを返してくれというのは当然の叫びです」
子らの笑い取り戻す 原告が支援よびかけ
報告会では、「ふるさとを返せ 津島原発訴訟」の原告団長・今野秀則さんが、講演しました。
今野さんは「津島地区には人間の営みがあり、生きがいを感じて生きる場があった」と話します。「なぜ闘うのか。津島には私の存在のすべてがあり、地域の人々とのつながりがあった。それが奪われたまま、“はいそうですか”というわけにはいかない」と訴訟への決意をのべました。
壇上に原告の11人が並び、発言しました。ある女性は「ジャーナリストの方がこういう場を設けてくれたのには深い意味があると思う。国民だけが泣く社会は許されない。子どもたちが笑って暮らせる社会をつくらなければならない」と支援をよびかけました。
(「しんぶん赤旗」2022年4月19日より転載)