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反原連 声上げ続けた9年間

「原発ゼロ」これからも

最後の官邸前抗議後、記念撮影する反原連のメンバーら=26日、首相官邸前

 毎週金曜日、首相官邸前で「再稼働反対」「原発いらない」の声をあげ続けてきた首都圏反原発連合(反原連)が、3月末で9年間の活動を休止します。メンバーや参加者らは政治を動かしてきた活動を確信に、「原発ゼロ」への決意を新たにしています。

 (内田達朗、前田智也)

 首都圏反原発連合(反原連)の活動休止前最後の首相官邸前抗議が26日行われ、400回目となりました。市民が立ち上がり政治を動かした画期的な活動として人々の脳裏に刻まれ、多くの人に受け継がれていきます。

 抗議には「原発いらない」など自家製プラカードを持った人から、赤ん坊を抱っこした女性、「仕事帰り」という男性、「国会に来たのは数十年ぶり」という高齢者までさまざまな人がいました。

 「デモや集会に参加するのは初めて」「社会問題に関心はあったけど、『運動』に参加したことはない」と話す人も多くいました。

 「原発ゼロ」の一点で参加を呼びかけ、非暴力を貫いたことで、誰もが安心して参加できる抗議となり、2012年6月29日には20万人が参加。「原発ゼロ」の圧倒的な世論を可視化しました。

 首相官邸や国会の目の前で、多くの市民が声をあげることが当たり前の風景になり、戦争法反対の国会前行動へとつながりました。

 市民と野党の共闘を示す場ともなり、野党共同の「原発ゼロ基本法案」提出が実現。政権交代で「原発ゼロ」の日本をつくる展望が生まれています。

 「原発ゼロ」の実現まで反原連は「解散」はせず、SNSなどでの発信を続け、各地でも抗議は続きます。

 反原連メンバーの越後芳さんは言います。

 「もともと『運動』には無縁でしたが、福島原発事故を見て、“声をあげなくては”と参加しました。この気持ちは変わっていません。これからも反原発の声をあげ続けていきます」

あとは政治決定だけ  反原連 ミサオ・レッドウルフさん

スピーチするミサオ・レッドウルフさん=26日、首相官邸前

 休止前最後の首相官邸前抗議(26日)でのミサオ・レッドウルフさんのスピーチ(要旨)を紹介します。

 2012年3月29日から毎週、金曜日に「再稼働反対!首相官邸前抗議」を開催し、「再稼働反対」の声をあげ続けて、400回目になりました。

 民主党政権のとき、脱原発の民意をくんで2030年代に原発ゼロを決めましたが、第2次安倍政権で原発推進に戻されました。

 福島第1原発事故を多くの国民が見て、原発は危ないと気づき、直近の世論調査でも、76%が「原発はいらない」といっています。

 政治は遅すぎるんじゃないですか。社会の進みに追いついていません。原発産業は立ち行かないことがこの10年でわかりました。あとは政治決定です。菅義偉首相、原発ゼロって言ってください。任期中に、絶対に原発ゼロ宣言をするよう訴えて、官邸前抗議、幕を下ろします。

共闘へつなげた場に  市民連合呼びかけ人・上智大教授 中野晃一さん

反原連の抗議で訴える中野晃一さん=2016年3月11日、国会正門前

 反原連の活動は、多くの市民が声をあげるプラットフォーム(場)を提供するという、開かれた運動をつくりました。毎週金曜日に官邸前へ行けば、誰でも気軽に参加ができる―。現在に続く、先駆的な活動です。

 同時に多くの国会議員に参加を呼びかけ、「市民が声をあげる場」というだけではなく、政党・国会議員に「民意を聞かせる場」にもなっていました。

 共産党をはじめ、複数の政党が参加する姿が日常の風景になりました。党派を超えた連携が実現して政治の世界に変化が起き、「市民と野党の共闘」へつながりました。そうした場を長期間にわたってつくり続けたことは前例がないことです。

 私自身、市民運動にかかわるきっかけが原発事故でした。原発をめぐる状況や自民党の政権復帰などを目の当たりにして、自分にできることをしようと考えました。反原連が抗議を呼びかけていることをSNSで知り、官邸前へ足を運んだことを覚えています。安保法制(戦争法)の廃止を求める運動や市民連合などにかかわりましたが、反原連は前を走り続ける光でした。

 反原連にねぎらいの言葉は言い尽くせません。もちろん、原発ゼロのたたかいは終わっていません。バトンは受け取りました。私たち一人ひとりがどうすればいいのかを考えながら、これからも声をあげていきます。

議場に響いたコール  日本共産党参院議員 吉良よし子さん
官邸前抗議でアピールする笠井亮(左)、吉良よし子の両国会議員=2013年10月25日、首相官邸前

 反原連が2012年3月に首相官邸前抗議を呼びかけた初期のころから、市民の一人として参加してきました。事故を経験して「原発はなくすしかない」と立ち上がった多くの人々と思いを共有し、一緒に声をあげた場所。20万人が参加した12年6月29日の抗議も、その場にいました。道路にも人があふれ、一気に官邸前へ広がった時の熱気は忘れられません。

 国政選挙に出る時も、官邸前をはじめ原発ゼロを願う人たちの声を届けることを公約として大きく掲げました。国会議員になり、抗議に参加している方から「吉良さんは私たちの代表だね」と声をかけてもらえたことはうれしかったです。

 議員会館や議場にも「再稼働反対」のコールは聞こえていました。原発推進を狙う政党や議員には大きなプレッシャーになっていたと思いますし、私にとっては大きな励ましでした。「原発ゼロ基本法案」を野党共同で提出することができたのも、官邸前抗議で原発ゼロを求める声が可視化されていたからこそだと思います。

 あきらめない声こそが、政治を前に動かす力になると、毎週毎週、官邸前で声をあげ続けるみなさんから学びました。一緒に声をあげることができたことは、私にとって誇りです。休止後も、原発ゼロを実現する政治を目指して、一緒に声をあげ続けます。

9年間参加 運動感謝  埼玉県蕨市在住 仲内節子さん(75)

地元の知人、友人と抗議に参加した仲内節子さん(右から5人目)=26日、首相官邸前

 地元の知人や友人たちと9年間、官邸前抗議に参加し続けてきました。福島第1原発事故が起きた時、私が勤めていた会社が原発産業にかかわっていたことがわかりました。事故以前から危険性が指摘されていた原発が日本全国に広がる一端を担っていたと知り、責任を感じました。

 そうした事情もあり、原発反対の抗議に参加することにためらいも感じていました。それでも絶対に原発をなくしたいという思いと、原発ゼロの一致点があれば誰でも参加できるスタイルであったため声をあげることができました。声をあげられる場をつくってくれて感謝しています。

 官邸前抗議とあわせて、地元でも原発をテーマにしたシンポなどを開いてきました。自民党政権は、原発事故を風化させようとしていますが、そんなことは許されません。これからも、地元で声をあげ続けていきます。

(「しんぶん赤旗」2021年3月28日より転載)