東日本大震災から10年の節目を目前にした2月13日、福島県、宮城県沖を震源とするマグニチュード7・3の大地震が起こった。世界的なコロナ禍とも相まって復興五輪という名目が急速に褪(さ)めていくようである。2020年10月には、宮城県の海岸線沿いに位置する女川原発の再稼働を県知事と県議会が決め、いよいよ被災地たる東北地方で原発再稼働が実現へと向かっていた。その矢先の大地震である。この10年、原発についてどれほどの議論があったか。
日高勝之『「反原発」のメディア・言説史―3・11以後の変容』(岩波書店)は、「反原発」という視座の下に、主流新聞メディア、ジャーナリスト、人文社会学系知識人、ドキュメンタリー映画、劇映画の表現を追った労作である。
また映画研究者のミツヨ・ワダ・マルシアーノが震災後の原発をめぐる映像作品、アート作品について論じた評論集を出した。タイトルはその名も『NO NUKES』(名古屋大学出版会)。原発について、どれほどの非があったかを明らかにする。
Zoom演劇の可能性を模索し
文芸誌が震災後10年の特集を組むのは3月発売号の来月だろう。だがそれに先駆けて『群像』には、2020年の夏、福島を取材して書かれた古川日出男「国家・ゼロエフ・浄土」の前編が載る。また「消しゴム式 チェルフィッチュ群像公演」と銘打った岡田利規の作品は、作家自身の「解説」によると「岩手県陸前高田市の復興のための嵩(かさ)上げ工事」を見たときの「衝撃というかなんともいえない違和感というか、巨大なクエスチョンマーク、それが発端となってつくられ」たものだという。
本文にQRコードが入れ込まれ、実際のZoomによる演劇も楽しむことができるようになっている。本作は、そのZoom演劇の文字化だが、コロナ禍の岡田利規の試みは、KAAT(神奈川芸術劇場)で上演予定だった「挫波/敦賀」が中止に追い込まれた後の配信にしろ、演劇の可能性を十全に模索したものとして注目に値する。
コロナ禍においては「対面」による「通常」の芝居こそが至上だとする声もあったが、結果として、そのような制約の中で何ができるかということを模索した作り手の存在が光った。
ところで、津波の被災地を12メートル嵩上げするために山をつぶして土を運ぶ陸前高田の復興事業について問うた作品としては、アートユニットの小森はるか・瀬尾夏美による映像作品「波のした、土のうえ」(2014年)があり、岡田利規の問題意識は、それに呼応する。同じテーマについての異なるアプローチを見比べる意味でも興味深い。
岡田利規しかり、震災後の演劇人の反応の速さには特筆すべきものがあったが、演劇誌『悲劇喜劇』は「震災から十年 呼び返される言葉たち」という特集を組んで、震災を受けて芝居をつくってきた演劇人の言葉を集めている。
ちなみに特集とは別に収録されている石原燃(ねん)「花樟(かしょう)の女」が、植民地台湾を経験した女性作家・真杉静枝を描いて読み応えがあった。
没後70年記念の宮本百合子特集
『文学界』は李琴峰(り・ことみ)の大作「彼岸花が咲く島」が光る。漢字語を廃して再構成した日本語を話す女主人公が、かつての日本語が生きていた頃に住み着いた人々から成る島にたどり着く、というSF的設定だ。島では争いばかりの歴史を築いてきた男たちを廃して、女性ノロ(祭司)たちが統治している。しかし、それはユートピアとは言えないところが読みどころだろう。
『すばる』では和田忠彦『タブッキをめぐる九つの断章』を織り込んで構成した、水原涼「焚火(たきび)」が印象を残す。本作を読むと、和田の本が読みたくてたまらなくなるのだから大成功だ。
『民主文学』は、没後70年記念の宮本百合子特集がなんといっても重要だ。宮本百合子が治安維持法の下に拘禁され、執筆禁止措置を受けていたことが、今になって、いとうせいこう『小説禁止令に賛同する』、桐野夏生『日没』など、小説の主題となってもいるからだ。
『新潮』は、52人によるコロナ禍日記リレー「2020コロナ禍」を特集し、時代を刻んだ。(きむら・さえこ 津田塾大学教授)
(「しんぶん赤旗」2021年2月22日より転載)