福島県相馬市に住む金丸道子さん(84)と金丸親正(ちかまさ)さん(77)は、「生業を返せ、地域を返せ」福島原発訴訟の原告です。ともに戦争体験者。キリスト教信者でもある道子さんは「みんなが平穏に幸せにくらしてほしい。戦争も原発も平和な暮らしを壊すだけです」との思いで裁判に加わりました。
中国で終戦迎え
姉の道子さんは戦争が終わったとき16歳、弟の親正さんは9歳でした。歯科医師だった父親は、戦前、中国に渡り、遼寧省営口(えいこう)市開業していたものの、50歳ごろに病気で亡くなりました。
その後は、現在の日本のマグネシウム工場で兄が働き、暮らしを支えました。女学校を卒業した道子さんも「事務員として働いていた」といいます。
終戦の8月15日は、営口でむかえました。ソ連軍が侵攻してきて「8月29日午後5時までに営口を出るように。残っていたら銃殺する」と命じられました。着の身着のまま大石橋(だいせききょう)市から「鉄の都」といわれる鞍山市に。「大石橋では床下に隠してもらったりしました。市街戦もあり略奪がありました。よく生きていたと思います」と言います。中国人が着る服を買い、現地の人になりすまして逃避行をしました。
ソ連軍が営口と大連の二つの港を利用することを拒否したことから、葫蘆(ころ)島が唯一の引き揚げ港となりました。港は水深が深く不凍港。大型船舶が停泊できました。
葫蘆島からの第一陣には2489人乗船し帰国したといわれています。毎日7艘の帰還船が1946年から数年間は博多港へ向かい、48年9月の最終帰還船までに約100万人以上が帰りました。
「乗ったのは貨物船でした。女と子どもはあとまわしにされた。配られたおにぎりはおいしかった」と、道子さんは回想します。親正さんは「みそ汁にはウジが浮いていた」とも証言します。
博多にたどり着いた金丸さん一家は、46年8月29日、姉が結婚してくらしていた相馬市に帰還し、この町に定住しました。
永く平和願って
道子さんはいいます。「あれから60年余、母を送り、姉を送り84歳になりました。『9条の会』に入り、戦争を再びおこさせないために生きてきました。そんなときに思いがけずに原発事故の被災地に生きることになりました。これからの長い年月を思うとき、永く平和で幸福でありたいと願っています」
親正さんは「戦争は決して許してはならない」と述べた上で、「原発は廃止して再稼働など絶対やめるべきだと腹の底から思います。輸出するなど常軌を逸しています」と、国の原発優先のエネルー政策に抗議します。
「『福島県から嫁をもらうな』と言われて悲しい思いをした福島の女性はたくさんいます。子どもや孫たちのためにも相馬市が安心安全の街であることを立証するためにも国と東電に原状回復させます」
(菅野尚夫)