東日本大震災・原発事故直後から福島県内の被災地などで惨状を撮り続けた写真の展示会と講演会の回数が、8年余りの間に国内外で300回になりました。
「写真の前で説明し、講演すると、参加者は涙を流して聞いてくれます。そして、原発はなくしていかなければならないと」。反応の大きさに力づけられる日々です。寄せられた感想文は大事に保管しています。
福島県三春町の写真家。趣味で撮っていた職人の写真が好評で、歯科技工士を辞めてプロの道へ。仕事が順調に滑り出した矢先の原発事故でした。
「事故を風化させたくない。写真家としてどうするか」。悩んだ末に被災地を撮り始めました。事故翌年の2012年1月、一時帰宅する知人の案内で避難指示区域に入ると、人の姿がなく、荒れたまま。「これが原発の恐ろしさだ」と、涙と怒りでシャッターが切れませんでした。
「被災した小学2年の女子から、『私、(放射能の影響で)大きくなったとき、お嫁にいけますか』と問われた言葉が頭から離れません。ライフワークとして原発の姿を後世に継承する、その基礎を残していかなければ」。突き上げてくる思いが自身を駆り立てます。
被災地に130回入り、撮った写真は約7000枚。いま10カ所で写真展開催に向け打ち合わせ中です。「若いときは写真とジャズが趣味だったが、音楽鑑賞どころではない。自分の命がある限り伝えたい」
文・写真 野崎 勇雄
(「しんぶん赤旗」2019年12月4日より転載)