3月11日で東日本大震災と東京電力福島第1原発事故から8年になります。住まいや生業(なりわい)への不安、災害公営住宅で増加する孤独死とその根絶への努力、今も続く原発事故に伴う避難―。被災地からの報告です。(関連14面)
東京電力福島第1原発がある福島県双葉町に隣接する同県浪江町―。市街地は自動車が行き交い、町役場に人が出入りして活気が戻ったようにも見えます。役場から100メートルほど離れると商店や保育園の廃虚もあり、人けのない民家が続きます。
浪江町では2017年3月に帰還困難区域を除く地域の避難指示が解除されました。今年1月末現在、同町に住民票を置く人は1万7582人ですが、帰町した人は910人。
明かりがない町
浪江町から西に60キロメートル離れた同県二本松市にある県営復興住宅・石倉団地自治会長の本田昇さん(66)は、自宅を整備し、住めるようにしましたが戻っていません。「医療機関も店もなく生活できない。帰りたいのに帰れない。今が一番つらい」と言います。町には町営の診療所が1カ所あるのみで、常駐する医師は内科医1人。コンビニエンスストアは再開しましたが、スーパーマーケットは再開していません。
数百メートル先が同県南相馬市になる藤橋地区の原茂さん(77)、幸子(たかこ)さん(77)夫妻は避難指示解除直後に自宅へ戻りました。11戸の集落で戻ったのは2戸。他の人は避難先に家を建て、帰らないといいます。
自宅から浪江町の市街地には車で5分ほどですが店が少ないため、週に2、3回の買い物や通院には30分かけて南相馬市に出かけています。茂さんは「覚悟して戻ったが不便。『避難解除したから(支援は)終わりました』では困る」と話します。
石倉団地に住む田中スエ子さん(70)も「これから年を取れば車で30分の買い物なんかできない。帰りたくないわけじゃない。明かりが戻らない町に帰れと言われても帰れない」と嘆きます。
子の減少は顕著・・子どもの減少はさらに顕著です。
原発事故前には町立の小学校が6校、中学校が3校ありました。避難後、二本松市で浪江小学校、津島小学校、浪江中学校を再開しましたが、児童生徒数が減り、今年度末に浪江中学校が休校となります。町は18年4月、町内になみえ創生小学校・中学校を開校しましたが、現在は児童6人、生徒1人。19年度は児童14人、生徒2人の予定です。
家族で石倉団地に避難している庄司マリ子さん(36)は「中学2年の娘は来年受験だし、友達もできて慣れたから、いま移動するのは難しい」といいます。
畠山熙一郎教育長は「戻った子どもは少ないが実技の授業や行事を合同にするなど工夫している」と説明します。
日本共産党の馬場いさお町議は「原発事故からの復興は本当に難しい。インフラ整備すれば復興というわけにいかない。帰還の条件は複合的で被災者それぞれ異なる。最後の一人まで支援していきたい」と話しています。(つづく)
(「しんぶん赤旗」2019年3月9日より転載)