
戦争体験のある阿部良一さん(81)=福島市飯野町在住=は、アメリカの爆撃機「B29が攻めて来たように放射能が攻めてきた」と東京電力福島第1原発事故について感じています。
飯野町には全村避難となっている飯舘村の被災者たちが仮設住宅などで暮らしています。
1945年3月10日の東京大空襲のあったあと、「東京から飯野町まで疎開してくる人がありました。原発事故の後に浪江町など浜通りの人たち、さらに飯舘村の人たちが疎開(避難)してくる。まるで戦争中とおんなじです」と阿部さんは言います。
■シェルター作り
約40年前に福島県の沿岸部に原発建設が持ち上がったころに「原発はぼっこわれる(壊れる)」と思った阿部さんは「反対の署名をした」そうです。原発建設が始まると防空壕(ごう)のような「核シェルターを自宅近くに作りました。「3・11」後の事態は「思っていたよりも早くぼっこわれた」と、危惧していたことが的中。幸い飯野町は放射線量が比較的低いこともあってシェルターを利用することはなかったものの「やりきれない思い」を強くしました。
阿部さんの家は、戦前から絹織物を作る織物工場を数人の従業員と営んでいました。阿武隈山系の山間の町にとって養蚕は現金収入になる産業でした。
養蚕の最盛期には、東北本線松川駅を分岐点にして飯野町を通り「絹の里」の伊達郡川俣町をつなぐ12・2キロの旧国鉄川俣線が走っていました。絹製品を横浜港へ運ぶ輸送線でした。養蚕は、合成繊維糸の開発で衰退、「福島に行くときには利用した」川俣線も72年に廃止になりました。
「戦争中には鉄の供出のために織り機の鉄部分を軍に持っていかれた」と言います。
阿部家の工場は49年に再開。阿部さんが40代になるまで絹織物の生産をしてきました。「織機の維持管理、資材の搬入などの役割をしていた。桑畑が1町歩、田んぼが本家と合わせて9反歩あり、農作業と兼業だった」
戦中、戦後の食糧難のときは何でも食べてきました。「食べられない、などと言ってはいられなかった。今は食べ物があっても放射能が心配で食べられない。野菜を作っても自信をもって作れない。娘にコメを送ってきたが、原発事故後は『要らない』というので送っていない」と言います。
■汚された「山河」
「やんない方がいい」と原発の再稼働に反対する阿部さん。「除染で出た廃棄物の処理ができない、汚染水の問題も解決できない。とんでもない事態が続いているのにこれ以上、全国に広げるような再稼働など許されない」と言います。
「戦争が終わったときには青年が頑張り、復興させないといけないと感じました。『国破れて山河あり』と励んだものの、今、原発事故で山河は放射能に汚されました。そのうえ集団的自衛権行使容認を策動するなど絶対に認められない」
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2014年6月26日より転載)