元原子炉運転員だった夫。事故の映像にただただ涙した―
あの日あの時、私はベッドで寝たきりの夫・正晴と老健施設の5階にいました。「ドン、ガタガタ」と大ゆれ。夫のベッドのすき間に座布団、服を入れた袋など詰めこみ、夫の上にかぶさってゆれがおさまるのを待ちました。
長い時間に思え、「お願い止まって」とさけぶ私。停電になり、テレビもつかず、施設のスタッフに携帯電話の画面を見せてもらってやっと合点が。震度「6弱」は初体験でした。
夫は旧日本原子力研究所で日本初の研究用の動力試験炉(廃炉済み)の運転員でした。アメリカのGE社の3万キロワットの原発。完成から初運転と24時間の交代勤務をしていました。希望に燃えていたのも初めのうちだけ。いろいろと安全性の問題が出て労働組合の機関紙に書くと、研究所から仲間とともに1カ月の出勤停止にあったことも。
全国で講演
原発に詳しいということもあって、各地の新規原発予定地の住民から呼ばれて「原発講師」として全国をまわっていました。経済性を優先し、安全性をないがしろにする原発の危険性を訴えていました。旧ソ連チェルノブイリ原発事故でも、1年後に現地調査に出かけ、帰国後は報告にまわる夫でした。
震災後、テレビが見られるようになってから東京電力福島第1原発事故の様子を夫にも見せました。くいいるように見、もう言葉も出せない病状だった夫は、ただただ涙を流すだけ。
その1年後、「さよなら原発ひたちなか市実行委員会」ができ、月1回ニュースを発行。駅頭や市内での配布を夫の代わりと参加することに。2013年、夫は72歳で他界。私の参加ももう9年になりました。
私が生まれたのは、「3・11」の1日前の3月10日、「東京大空襲の日」です。私にとって、3月は特別な月になりました。
家から10キロ圏内にある日本原電東海第2原発は運転開始から40年をすぎたのに、まだ動かされようとしています。最初にできた東海原発は01年から廃止措置がとられていますが、延期続きで廃炉はいつのことやら。
風化させぬ
原発事故から10年。「風化」のせいか、駅頭でニュースをもらってくれる方が減ってきていますが、その分がんばらないと。原発の危険性を訴えてきた夫がやり残した仕事をひきついで、いつまでやれるか分からない中、住んでいる団地内にニュースを配り続けています。
(「しんぶん赤旗」2021年3月1日より転載)