南相馬市の荒木貞夫さん(71)は、二つの裁判をたたかっています。
一つは、国と東京電力に原状回復と損害賠償を求める生業(なりわい)訴訟。もう一つは明治乳業争議団の一員として職場の民主化と労働条件の改善のたたかいです。
荒木さんは、高校を卒業すると集団就職。1962年、千葉県市川市の明治乳業に入社しました。
■7畳半に4人も
明治乳業の労働条件は極めて劣悪。7畳半の部屋に4人も詰め込む「タコ部屋」状態でした。
早朝6時から深夜を含む複雑な交代勤務。腰痛、胃腸障害、ノイローゼなどにかかる労働者が続出しました。労働者約700人の市川工場では、18人に1人が疾病に苦しんでいました。
荒木さんらは、労働組合の代議員選挙に当選してから労働組合活動を始めました。市川工場では、376人体制の生産ラインを一気に107人体制にする人員削減を強行しました。明治乳業は「余剰人員だ」として、敷地内のゴミ拾いや草取り、ペンキ塗りなどを強制して嫌がらせをしました。
66年からは、「紅組」「白組」「雑草組」などに分断し、「紅組」には「赤い水虫」「赤いゴキブリ」などと罵倒を浴びせて、人権じゅうりんと差別を強行しました。
労働者たちは、85年には全国連絡会を結成し、最高裁までたたかいましたが敗訴。争議団は現在もたたかい続けています。
50歳のころ親が倒れたために南相馬市に戻り農業を継ぎました。
福島原発1号機が爆発した3月12日、荒木さんは、津波で家を流された、いとこの奥さんとその長女の遺体捜索をしていました。「おいっ子から原発が爆発したから逃げようと泣きながら訴えられました。捜索は中断せざるを得ませんでした」
放射能の影響で中断した遺体捜索。見つかったのは3月末になってからでした。「原発事故での放射能さえなかったらこんなに遅れることはなかった」
南相馬市は、市民を群馬県片品村、福島県会津地方、新潟県と避難させました。荒木さんたちは長野県と名古屋市へ別れて避難しました。8月になって南相馬市から「大丈夫だから帰って来い」と連絡が届きました。
日本共産党のボランティアセンターが南相馬市に設立されました。仮設で暮らす避難者たちに支援物資を届けました。原発ゼロを訴える金曜行動を南相馬市図書館前で取り組んで93回を超えました。
■将来不安だらけ
「東電の電気は東京に送られ使用していない福島県民には、何の恩恵もない。被害だけ押し付けられている。住民の絆が壊され、若者たちは帰ってこない。将来に不安だらけの生活を強いられている」と怒ります。
「国と大企業の本丸にたたかいを挑んだ4年間だった」という荒木さん。「本丸を正さないと国民の生活と安全は脅かされる。勝つまでやる。福島県民だけでなく全国民のたたかいです」と決意を新たにしています。
(菅野尚夫)
(「しんぶん赤旗」2015年4月20日より転載)