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福島原発事故15年 津島スタディツアー(中)/まさか放射能のせいで

帰れないの分かっているけど、帰りたい

 福島県浪江町の北西部に位置する津島地区。あちこちに黄色の看板が目につきます。青と赤の文字で「この先帰還困難区域につき通行止め」と書かれています。赤いコーンやバリケードが置かれています。

 「帰還困難区域」は、公益の目的であればだれでも申請すれば立ち入ることができます。

 一般社団法人原発事故影響研究所(代表理事・宇宙物理学者の池内了さん)が取り組む津島復興塾のスタディツアーで帰還困難区域に入りました。立ち入る前に向かったのはスクリーニング場。そこであらかじめ申請していた立ち入り許可証を示すと、放射線の積算線量計が配られました。

「ここが僕の原点」

 バリケードをくぐって最初に向かったのは津島地区赤宇木(あこうぎ)です。

 「ここが僕の原点」。そう語るのはスタディツアー共同企画者の木村真三獨協医科大学准教授です。

 東京電力福島第1原発の事故直後、NHKの取材クルーとともに福島に入り、放射能汚染を調査しました。

 2011年3月末、原発から約29キロ離れた赤宇木にある集会所には、逃げ遅れた住民が6人ほどとどまっていました。当時、木村さんが集会所の外の敷地で計測すると80マイクロシーベルト/時を超える値が出ました。室内でも25マイクロシーベルト/時を超えました。通常なら0・03~0・05程度。計測した数字を示しながら、危険性を説明し、即時避難を呼びかけました。

 このとき以来、木村さんは浪江町はじめ海沿いの地域を中心に放射能測定を続けています。津島地区の人たちが国と東電を相手に「ふるさとを返せ」の原状回復と損害賠償を請求している裁判では、証拠として測定した数字を提出するなどしてきました。

 現在、赤宇木の集会所は撤去され、更地になっています。「ショックですね」と一言こぼした木村さん。

 建物の代わりにあるのは空間線量を測定するモニタリングポストです。0・6マイクロシーベルト/時以下でしたが、周辺を計るとどんどん数値が上がっていきます。

 ツアーに参加していた獨協医科大学1年生の学生は父親から借りてきたという線量計を握りしめました。「計らないとわからないんですね」と数字を見つめていました。

 赤宇木地区に家族8人で住んでいた石井絹江さん(74)。「帰れないのはわかっているけれど、帰りたい」とツアーに参加した学生の前で語りました。

 町の職員でした。住民戸籍係、産業振興課とわたりあるき、事故当時は津島地区唯一の診療所で働いていました。「(浪江町の)海沿いからたくさんの避難者がやってきた。トイレや水分補給などの休憩所として、診療所を開放して受け入れた」と石井さん。「福島市につながる国道114号は車が列をなしていた。診療所は薬がほしいという人たちであふれかえった」と語りました。

ふるさと残したい

 酪農を営んでいた夫は最初、牛を守るために残ると宣言。放射能をあびていて牛乳は出荷できず、乳牛は殺処分するしかありませんでした。「まさか放射能のせいで帰れなくなるとは」

 避難所から5回の引っ越しをへて、今は夫婦で福島市で暮らしています。農地を買い、野菜に果物、さまざまな作物を育てています。エゴマに力を入れているほか、「津島や浪江の名前を残したい」と津島の代表的なおやつ、かぼちゃまんじゅうを作って販売をはじめました。

 津島地区は全域が避難指示が出されて立ち入り制限がされていましたが、2023年に一部立ち入り解除になりました。解除にあわせて町は津島支所の隣に公営住宅を10戸建てました。石井さんは津島で活動するため1部屋借りました。「津島に戻ってふるさとを残したい」

(「しんぶん赤旗」2026年4月16日より転載)