父の背中を見て

 父は、会社を解雇され、裁判で解雇撤回闘争を闘ってから、自民党支持から日本共産党支持へと180度変わりました。(生い立ち参照)

 父は、その後、地域の働く仲間を応援する活動をするようになりました。
 3人兄妹の長女のわたしは、よく父の組合活動に連れられて行きました。
 労働者の権利を守るため、自分のことのようにがんばる父を見て育ったわたしは、父を尊敬し、父のような、人のためにがんばる、社会に役立つ大人になりたいと思うようになりました。

母の背中を見て

 母は、父の公害反対の署名運動に協力する中で、新日本婦人の会(略して新婦人)の仲間と出会いました。新婦人は、画家のいわさきちひろさんや婦人運動家の平塚らいてふさんらの呼びかけでつくられた、平和・子育て・女性の地位向上など女性の願いを実現するために運動する日本一大きな婦人組織です。(2003年5月には国連経済社会理事会の特別協議資格を取得し、国連NGOとして、国際的な視野で活動をひろげています。)
 母は、新婦人の仲間と学校に体育館やプールをつくる運動、地域に郵便局をつくる運動などなど、忙しく飛び回わり、生き生き活動していました。
 わたしも結婚したら新婦人に入って平和のため、子どものためにがんばりたい、と思うようになりました。

日本共産党って?

 父母は、幼い私たちに、平和のこと、社会のしくみなどわかりやすく教えてくれました。
 また、日本共産党のこともわかりやすく教えてくれました。
「日本共産党はね、戦争のない平和な社会をつくるんだよ」
「大金持ちや貧乏人のない、平等な世の中をつくるんだよ」
「男女平等の世の中をつくるんだよ」
「世界にはたくさん共産党があるけれど、日本の共産党はよその国の共産党と違うから、日本共産党っていうんだよ」などなど。

 わたしは、18才になったら日本共産党に入って、平和のため、世の中をよくするためがんばりたい!と思うようになりました。

18才で日本共産党に・・・!

 18才になりました。でも「いつか、そのうち」と思うようになっていました。
 ある日、お世話になっている方から入党を勧められました。「勉強してから」と断ると、「入ってからでも勉強できる」と言われ、「それもそうだ」と日本共産党に入る決意をしました。 ← 安易(^ ^;)

 こうして、19才になる1ヶ月前の夏に「18才で日本共産党に入る」という夢を叶えました。

挫折と学習と・・・

 それからは、挫折と学習の繰り返し・・・。
 日本共産党が大嫌いという方とお話しをしては、相手に理解できるように伝えられないジレンマに落ち込み、そのたびに学習を重ねてきました。
 多くの仲間が、わたしの成長を見守ってくれました。
 そして、「社会は、その時代のより良くしようとする運動によって発展してきた。これからも、私たちの運動によって、国民一人一人が大事にされる社会、戦争のない平和な社会、あらゆる差別のない社会にすることができる」と確信を持てるようになりました。

わたしが、市会議員に立候補?

 敦賀に結婚してきてからは、家庭、子育て、仕事のかたわら様々な運動にたずさわってきました。
 原発の安全性を求める運動、原発増設の可否を問う住民投票の運動、新日本婦人の会の仲間と3歳までの医療費無料化の運動、子育てゼミの開催、平和映画の上映会をしたり・・・。
 誰もが健康に暮らせるよう医療生協運動、核兵器廃絶・戦争反対の平和運動、どの子も豊かに育つ環境を求める保育運動etc.・・・。

 そんなある日、奥山裕二市議(当時)が、県会議員選挙に立候補することになり、その後継者としてわたしに立候補の要請がありました。
 「わたしなんて・・・。子どももまだ小学生、敦賀に親戚も同級生もいないのに・・・。」
 でも、これまでの運動を通じ、「敦賀をもっとよくしたい。住民の声が届く市政、一人一人が大事にされる敦賀市にするためにがんばっていきたい。」と強く感じていました。
 そのために、わたしにできることがあるのなら、と悩みぬいたすえ立候補する決意をしました。34才の誕生日のことでした。